大和村の宮内から川本へと通じる街道「滝ケ原横手」。その横手の曲がり角に姫さんのお墓があります。墓といっても粗末な石を二つ重ねたくらいのものです。その墓の横に大きな石があり、手のあとがついています。
この姫さんの墓の話は、ずっと昔何百年も前のことです。出羽に二つ山白というお城がありました。そのお城には富永という殿様が住んでいました。その殿様は、とても立派な人物で、よい政治をして人々から慕われていました。殿様には男と女、二人の子がいました。男の子は成人し、君谷の城を治めていました。殿様は女の子には、家来の九郎という豪傑者をめあわせようと考えていました。
ところが、姫が17歳、九郎が20歳の時、思わぬ出来事が起こったのでした。殿様は二人をめあわせて川本の丸山城を治めさせようと思っていたのですが、隣村阿須那の藤掛城から、「姫を人質に差し出せ、さもなければ二つ山城を攻めるぞ。」と言ってきたのです。さすがの殿様も困り果て、君谷城の姫の兄に両人を預け、その上で夫婦にさせようと考え、二人に書状を持たせて逃がすことにしました。二つ山城をこっそり抜け出し、布施の奥谷の滝ケ原横手までたどり着いたのですが、すでにそこには追手が先回りして待ち構えており、後の二つ山を見ると城はもう燃え上っていました。姫はこれまでと、短刀で喉をつき自害しました。九郎はこのことを一刻も早く姫の兄に知らせるため、勇敢に戦い、血路を開き君谷へ走りました。姫の亡骸は村人の手によって埋められ、その上に石を立て碑としました。
それから3年後、九郎が僧侶となって滝ケ原横手に現れました。そこで、夫婦になれなかった姫の碑を抱いて、思う存分泣きました。その大きな石には、大人の人の手のあとが刻まれ、姫を守っているのです。秋になると村人たちは、雨が降ると姫が泣くのだといって、姫時雨の歌詞を作って歌ったということです。