布施公民館裏手の旧道沿いに位置する「銭宝の寄り合い処」は、太い柱を使った立派な造りの空き家を改修し、地域の交流施設として2018年の春にオープンしました。
高齢の方が一緒に食事や体操を行う「サロン田屋」や、毎月第4日曜日にオープンする「長ぐつCafé」等、地域の方が集まる交流の場として、また銭宝を訪れてくれた方のおもてなしの場として、活用しています。
これまでに、地域の作家によるパッチワークや写真の展示、タイル細工のワークショップ、お月見会やフリーマーケット等のイベントを行っています。天井が高く、雰囲気のあるお宅に来られる人も驚かれるほどで、手作りのお菓子と共にゆっくりくつろいでいただいています。
また2018年度には、島根県立大学の学生が「長ぐつCafé」のメニューの開発に携わってくださいました。将来的には季節のお食事会として、地元のお米や野菜を使った料理を提供していきたいと考えています。
また加工場「銭宝地区加工施設」も2019年の春から使用を開始し、これから地域の特産品の生産や新商品の開発、お弁当や配食サービス等を進めていく予定です。銭宝地区の新たな名所を目指して、色々な楽しい企画を考案中です。
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布施1、布施2、八色石と銭宝地区の各集落にまたがる高野山。春夏秋冬と様々な顔を見せながら、遠い昔からこの銭宝地区を見守ってくれています。杉や桧の林の所々に、江戸時代よりこの地区で盛んだった“たたら製鉄”の面影も残しています。
昔は山菜や茸、薪や炭焼き、製鉄…と生活の中心であった高野山も、時代が変わり、山に入る人も少なくなりました。その結果、イノシシが里に下りてきて田畑を荒らす被害が増えました。
平成25年度より山頂付近の木の伐採、ステップの設置、草刈りなど、高野山の登山道整備を進め、現在、銭宝地区の3集落それぞれから山頂を目指す登山道ができました。東、南、北の斜面にある登山道は、それぞれ植生、雰囲気、景色も違い、個性豊かな各ルートで山頂までの道のりを楽しめます。平成27年度には、山頂にある3本の松の木を柱に展望台を作り、高野山に多く見られるイロハモミジの苗を南側斜面に植樹しました。
これまで、高原小学校児童の課外授業や親子登山会、地元出身者との交流登山を開催し、今後も自然観察登山会などを計画しています。また平成26年10月には、朝日新聞のコラム「ちょっと里山」で高野山が紹介され、「“熊の腰かけ”と書かれた札のそばに、巨石にまたがった大木があり、今にも動き出しそうな様子」「街並みと刈り入れが済んだ水田を眼下に、県境に向かって里の山々が波打つよう」等と紹介されました。
四季折々の姿を見せてくれる高野山、生活の中心であった頃より時代は大きく変わりましたが、散策道を整備することで、多くの人がまた山に足を運び、高野山の豊かな自然を次の世代へと繋げていけたらと思います。
八色石、龍岩橋から旧道を500mばかり行くと、右側の桧林の中に鳥居があり、そこから石段を訳400段登ると、八束臣津命をまつる龍岩神社があります。
龍岩神社から前方を眺めると、はるかに続く中国山地の峰々、右側に高くそびえる畑ケ迫の雄大さ、眼下には八色石集落を一望に収めることができ、本当に素晴らしい眺望です。
この神社の裏には龍の頭といわれる巨石があり、しかもその岩には八つの色があるというので、昔から地名を八色石、社を龍岩神社と言われています。
この神社の由来は、神代の昔出雲の須佐之男命の末孫八束水臣津命がこの地に降りると、そこに一人の姫が現れて、「この国に八色の魔石がある、青々と茂った山たちまちに枯れ山となし、満々と流れる川をたちまち乾川となし、民を苦しめる。」と告げました。命はそれを聞き、その魔石を退治して、民の悩みを救おうと姫に案内させ、そこに着くと石をめがけて一刀のもとに切り付けました。するとその石は二つに割れて一つは龍の頭となり、もう一つは龍の尾となって遠く美濃郡の角石となりました。命は残った巨石を見て、「この国に奇異の石見つるかな」と述べられたといいます。それ以来、この地には災いがなくなったといいます。これが龍岩神社の起こりであるとともに、石見の国名もこれから起こったといわれています。火災除け、牛馬の病除けにご利益があるといわれています。現在の社は大正十年大工藤田寅一郎氏によって建築されたものです。例祭は、毎年4月3日とされています。
大和村の宮内から川本へと通じる街道「滝ケ原横手」。その横手の曲がり角に姫さんのお墓があります。墓といっても粗末な石を二つ重ねたくらいのものです。その墓の横に大きな石があり、手のあとがついています。
この姫さんの墓の話は、ずっと昔何百年も前のことです。出羽に二つ山白というお城がありました。そのお城には富永という殿様が住んでいました。その殿様は、とても立派な人物で、よい政治をして人々から慕われていました。殿様には男と女、二人の子がいました。男の子は成人し、君谷の城を治めていました。殿様は女の子には、家来の九郎という豪傑者をめあわせようと考えていました。
ところが、姫が17歳、九郎が20歳の時、思わぬ出来事が起こったのでした。殿様は二人をめあわせて川本の丸山城を治めさせようと思っていたのですが、隣村阿須那の藤掛城から、「姫を人質に差し出せ、さもなければ二つ山城を攻めるぞ。」と言ってきたのです。さすがの殿様も困り果て、君谷城の姫の兄に両人を預け、その上で夫婦にさせようと考え、二人に書状を持たせて逃がすことにしました。二つ山城をこっそり抜け出し、布施の奥谷の滝ケ原横手までたどり着いたのですが、すでにそこには追手が先回りして待ち構えており、後の二つ山を見ると城はもう燃え上っていました。姫はこれまでと、短刀で喉をつき自害しました。九郎はこのことを一刻も早く姫の兄に知らせるため、勇敢に戦い、血路を開き君谷へ走りました。姫の亡骸は村人の手によって埋められ、その上に石を立て碑としました。
それから3年後、九郎が僧侶となって滝ケ原横手に現れました。そこで、夫婦になれなかった姫の碑を抱いて、思う存分泣きました。その大きな石には、大人の人の手のあとが刻まれ、姫を守っているのです。秋になると村人たちは、雨が降ると姫が泣くのだといって、姫時雨の歌詞を作って歌ったということです。
布施川の支流・伊矢谷川に沿って50m入ると、眼前に展開する大飛瀑。その高さは20m以上もあるそうです。
古老の話によると、昔は赤羽ノ滝と称していたそうですが、江戸時代末頃より赤馬滝と呼ぶようになったそうです。当時、下畑では「たたら」が盛んで、その銑鉄を運ぶのに性質のおとなしい赤馬(赤毛の牛)を使っていました。運搬路は下畑から滝の上を渡り、伊矢谷を経て今津の銅山へと続く難路だったそうです。
ある年、その赤馬に仔牛が産まれ、毎日親牛のあとからかわいい姿で小路を往復していました。ある日、その仔牛が誤って足を滑らせ、絶壁を滝壺へと転落し、ついに底深く沈んでいきました。親牛の悲しみの姿は、端の目にもあまるほどでしたが、数日後、滝の上にさしかかるや、ひと声悲しく鳴いて仔牛のあとを追うごとく、滝壺に身を投じたそうです。里人は、この出来事を哀れんで、以来、この滝を赤馬滝と呼ぶようになったそうです。底深く沈んだ牛の角がはるか下流にぽっかりと浮かび流れたのを見て、誰となく角谷川と呼んだそうです。また、滝の周りの紅葉は親子牛を哀れんで年中どれかの小枝に赤い葉をつけているそうです。
昭和のはじめ、集落の有志によって滝壺の近くに観音堂が建てられ、訪れた人にこの伝説を物語っています。
天狗岩は赤馬滝の入り口にそそり立つ巨岩。その中ほどに突出しているのが天狗の鼻で長さ2mあまり。その下の口は、奥が八畳ほどの洞窟となっており、天狗は里からさらってきた姫を閉じ込めていました。
姫は里恋しさ、家帰りたさに岩をつたって逃げようと川端まで来ましたが、それより先は岸壁にさえぎられて逃れることができず、毎日毎日そこまで来ては父母を呼びつつ泣き崩れ、とうとう足元の岩に姫の足跡がついたそうです。里人は、このかわいそうな姫の足跡を見て「ぬりこし」と呼んだそうです。